オートポイエーシス


コヒーレント思考と違って、こちらはちゃんとした学問ですが、 ここでいうオートポイエーシスは、MrFlat がとっても便利なので、勝手に解釈して用いているもので、学問的な正しさなんか興味ありません。あしからず。
そうは言っても、ホンモノに興味ある人の為に、いくつか紹介しておく。

オートポイエーシス は、 マトゥラーナバレーラ が言い出しっぺです。
ニクラス・ルーマン が社会学に応用して有名にしたらしい。著作は多い。 何冊か読んだが、面白いけれどデコヒーレントしたオートポイエーシスで少し変な感じがする。
私は河本英夫のシステム現象学―オートポイエーシスの第四領域で最初にその存在を知った。 河本英夫さんの本の方が感動的だ。特に、この人、美術には造詣が深く、オートポイエーシスを使っての解説は、他の美術本の比じゃない。 ヘーゲルの芸術論が虚しく響く。
あとは、山下 和也かな。この人はオートポイエーシスしちゃっているので、ちょっと変った文章だ。


観測と当事者

いつも目が合うと、ニコニコしてくれる綺麗な娘さんがいたとしよう。
で私に気があるに違いないと思う。これ娘さんを「観測」して私が導き出したた結論だ。
で、思い切って打ち明けてみる。どっひゃーっ!
「いえいえ、とても変な人なのでつい可笑しくって、笑ていただけです」
ってこれ 娘さんの「当事者」の立場です。
観測しただけじゃな分からないものがある。
これはモテない私みたいな男の例ですが、モテる男も大して変わらない。
モテたと思っていても、例えば家が破産して金持ちじゃなくなる。 もしくは、リストラされて会社をクビになる。 はたまた、幸福になって「危ない感じ」がなくなってすっかり丸くなってしまう。 会社を定年したら、 etc,.. とにかく、その時になって気づいても遅い。 その人じゃなくて、その人が持っている○○○が失われて捨てられる男も多い。 それ、単に○○○(外から観察されたもの)が愛されていただけで、愛されていたのはあなた(当事者)ではありませんから。

人は歳をとると、見た目も変わるかも知れませんが、この場合の当事者。 それも今ある当事者じゃなくて、もう少し正しくいうと、今日の自分があって(勿論、昨日の自分もあって)、明日の自分も在るわけですが、それ、その仕組というか日々自分を<作り出すシステム (動作みたいなものを想定して、それ)をオートポイエーシスと呼びます。

オートポイエーシスは何にでも応用できます。
名前もない、ひょっとしたら誰も気が付かなかったものに、名前を付ける。 名前は付けなくてもよいですが(その場合「それ」と指すしかありれませんが)、 某か思いを形にする。 そうして、それを、たとえば起きていることを説明するなり、自分と関連付ける。 効果があればまた利用される。 で、それが何度も何度も利用されれば、その「名前」(「それ」かもしれませんが)は残る。形は残る。
フレーズと呼ぶ方がよいかも知れない。厳密に正しくある必要はない。
正しければ、す〜っと入ってくるかも知れないし、 無理やりそのようにデコヒーレントさせていれば、某か奇異な感じが残るかも知れない。 何れにせよ、そこには、1つの経路(ネットワーク)ができてしまっている。 それに基づいて、行為するとしよう。それが更なるそれの利用を要求するなら、 その経路は閉鎖する。その経路を何度も何度も利用していると強力な回路ができがってしまう。

一度しか再現しないものなら、きっとあえて名前をつけるまでもないかも知れない。 あり続けるなら、在り続けるものが在るわけで、そこでは絶えず生成が繰り返し行われている状態とみなします。 あるものは、単に在るわけではなくて、毎瞬間、生成し続けていているからこそあり得る訳で、それを維持する生成し続ける仕組みをそのものをオートポイエーシスと呼びます。

マザコン

いきなり応用問題で恐縮ですが、
子供離れできていない親が、この子は全くもうなにも自分じゃ出来ないんだから、と甘やかす。 子は自分でなにかやろうとしているのに、つい親が出しゃばる。 そのように、甘やかされた子は、益々何も出来ない子になる。 親は、自分の(この子は何も出ないという)認識を更に強め、更に甘やかす。 斯くして、閉鎖回路が出来上がる。
出来上がるんだが、実は閉鎖回路ここでは2つあって、子供ととの関係に於ける閉鎖回路は表のもので、裏にもあってこちらの方がもっと強力。 表の閉鎖回路の元に「何もできない子」が生まれるなら、裏の閉鎖回路では、理由は知らないが、何れにせよ子供をそういう状態に於いておきたい親がいて、その異常さは自分でも薄々気が付いている。 それを打ち消すためには、自立した子供じゃ駄目なんだ。 案の定、子供は失敗する。 その結果、やっぱり、自分は正しかった、こうするしかないとなる。 つまり、裏の閉鎖回路は自分肯定の閉鎖回路。
そこでは子供は単にその為の手段。
表の回路が生み出すのは「何もできない子」かも知れませんが、裏の閉鎖回路が生み出すのは親が思う「正しい自分の判断」。 つまり、そういう親。 自己満足といえば自己満足ですが、そうなった過程には止むに止まれぬ事情があったのしょう。
子供に発生している閉鎖回路も当然ある。
このように、何重もの閉鎖回路が互いに絡み合って、相互依存し合って(相互浸透と呼びます)、異常な親子関係を維持できる。
もしも、子供が勝手に親離れすると、そういう親はパニックになり「悪い友達ができた」とか、最初は無理にでも自分を肯定するかも知れません。 つまり親のそのオートポイエーシスが元の形では維持できなり、変形します。 観測的にいうと「親のあり方が」が変わります。 もし諦めるなら、「やっぱり、この子は出来損ないだった」もしくは、「別れた夫の悪い遺伝子がでた」でもなんでも良いですが、その手の理由のノードをそのネットワークないに挿入して、それでも「自分は正しい」となる。

もしその親、その人が十分愛されていて、愛に満たされていたら、自分の間違いを認めるのは簡単だ。
自分の間違いを認めることは、彼女にとって、すなわち愛されなかった自分を認めることと同じ意味を持つ。
ホントに愛されてなかったかもしれないし、実はは愛されてたにも拘らず愛されていることを自覚できなかっただけかも知れませんが、事実はどうでもよくて、とにかく「愛されてなかった」と感じた自分がそこにある。
他方、現在において十分愛されているなら、それを実感できるなら、過去がどうであれ、そこから立ち上がり、今を生きる勇気を得ることができるが、悲しいかなそうではない。 現在、実際には愛されているかどうかはさておき、彼女は現在も十分愛されているとは実感していない。
愛されているとは、「外から見た観測」ではなくて「当事者の実感」だ。

オートポイエーシスは毎回何かを生み出します

オートポイエーシスはシステムで、そのシステムは構成素 と呼ばれる某か外から見えるものを生産しながら維持される閉鎖回路です。 このとき、普通に観察されて目に留まりやすいのは「構成素」の方です。 なにかが3次元の(4次元でも良いですが) この実際の物理的空間に存在したとすると、それは構成素の方で、システム(オートポイエーシス) は(位相空間上に)理論的存在するだけで見えません。 システムの方は捉えにくい場合もありますが、構成素とペアでとらえます。 たとえば、人間という生命システムのオートポイエーシスシステムが作り出す構成素は、 物理的な人間の体(生命体)です。 この体を単体で存在しているとみなさないで、システム、(つまりオートポイエーシス は(人間)を維持しているシステム)とペアでとらえます。 体は触れるし、見えるし、よく分かりますが、システムの方がちょっと掴み難いかも 知れません。

シェリングは、ポテンツという言葉で存在の裏にあるシステムを強調した。 量子力学でいうと、システムの部分は波動関数で構成素はデコヒーレントした存在を思い浮かべると良いかも知れません。

構造的カップリング

なにを見ているかに因るので微妙なんですが、生命体としてのその人ではなくて、 その人の人格を言うなら、その人格を成さしめているところのシステムがあって、 その人格というか、毎日の生き様が生じるわけで、上の生命体としてのその人とは 違うシステムととらえます。
それが物理的な人間をちゅう帯として同時に存在するわけで、こういう状態を「構造的カップリング」している、と表現します。 言うまでもなく、一人の人間には多くのオートポイエーシスシステムが構造的にカップリングしてその人の存在が存在しているわけです。

オートポイエーシスは位相空間上に存在する

オートポイエーシスは何に用いても良くて、抽象的なものでもかまわない。
構わないどころか、私は全部これで記述しなおすべきじゃないくらいに思っている。
ルーマンは、例えば、次のように表現しました。

「支払い」という構成素を生産しながら維持されるのが「経済」。
「コミュニケーション」を生産しながら維持されるのが「社会」。
こう言っちゃうと、その限りでのたとえば経済なら経済が、活き活きと理解できます。 それが合っているかどうかは別にして、意味がはっきりします。 こういう定義なら誰ともコミュニケーションをとらない引きこもりは社会に属して ないと言えるのかも知れません。 この様に、○○の限りという前提条件がつくかもしれませんが、オートポイエーシス では、分かったか分からないかよく分からない、なんて曖昧さはなくなります。 曖昧さが残るのは閉じてないからです。

オートポイエーシスの特徴

オートポイエーシス、
厳密には、個体性、単位性、自立性、入出力の不在等の条件が必要なようですが、 私はあまり気にしてません。 それでも、オートポイエーシスには他にはない強力な特徴が幾つかあります。

目で見えるのは「構成素」の方でシステムじゃありません。
この「目で見える」をもう少し格好良く言うと「観測する」 と表現します。 光が波動関数のどこに収束(デコヒーレント)するかは、まったく不明、偶然ですが、 波動関数によって観測される位置の確率は計算できます。 観測されたもののみが真の存在で、じゃあ、観測されたない波動関数そのものは存在 しないのか? 両方がペアになって、存在するととらえるのがオートポイエーシスと述べました。 もしも、システムを存在しないもとするなら、どこまでいってもそれは、○○の様に 見える(観測される)としか言えなくなります。 また、システムの存在を許したとしても、実は、その構成素が実際に生成されるに至るには実際には「偶然」が入り込みます。 一意には決まりませんが、オートポイエーシスをつかえば、実際に閉鎖回路の内側(当事者サイド)から表現 or 記述することが可能になる場合があります。

そう、オートポイエーシスで人を表現する場合、我々の肉体は構成素であり私自身とはみなしません。その人自身をなしているところのシステムをその人とみなして、その人の肉体はあくまで構成素です。 それ(肉体)がなければ、この世では存在できませんが、だからといってそれが私なのではありません。 もしあなたが、その人の見かけや外見えにとらわれずにその人自身を認識できるとするなら(間違っている場合もありますが)、もしそれが合っているなら、オートポイエーシス的に結構良い線行っているのかも知れません。 そうしてその場合の認識方法は、客観的なものというより、なにかしら共鳴する みたいな、感性的なものになると思います。

人は、ユニークなその人であり、勿論分割不能でその意味で単位であり、自立してます。 されど、食物を食べ排泄する。酸素を吸い、二酸化炭素を出す。 はたまた、色々な経験をして行動をする。どうみても入力と出力があるように見えます。 前半は簡単です。それは構成素としての肉体を維持するのに必要なだけで、オートポイエーシスとは直接無関係です。 大自然はライオンのほうがシマウマより強くできてます。 そうじゃないと、ライオンは肉食動物でありえなくなりますが、さりとて弱いからという理由でシマウマを食うわけではありません。 有機物でできている我々の肉体を維持するにはそうなっている必要がありますが、それが私なのではありません。
後半は人というより、、心的システム(これもオートポイエーシス)を指すと思いますが、 色々な経験をすればそれをなにもしないというのも含めて、元に某かアクションを起こしますが、経験するというということ自体がオートポイエーシスの動作であり、 それをどういう経験にするかというのは、オートポイエーシス側の問題であり、 入力があるから経験し行為に至るのではなく、 みずから経験を求め、それを入力として採用するという意味ではその通りですが、 それは、例えば、コンピュータのように受け身で入力を与えれば、出力が得られるというう意味での入出力ではない。ましてや、入力が与えられれば動き出すと行ったパッシブなものでは全くない。

ある危機状態において、悠然と構えていたと見えても、 内情はパニックを起こしていて、固まっていただけかも知れません。 そもそも、それがオートポイエーシスなら外から観測していたのでは、分からない。 分からなくとも、いろいろ言うことは勝手で、それがまったく無意味だとは思いませんが。 最近流行りのビッグデータでは、あるものと別の在るものとの間に相関関係をみつけることが出来ます。 利用するにはそれだけで十分である場合もありますが、そこに見通す力があれば、某かオートポイエーシスシステムを見出すことができるかも知れません。

オートポイエーシスは閉じたネットワークで、構成素を生産しながら維持されます。 オートポイエーシスは閉域を描くので、外がありません、というよりそこでは自分し かなくなります。



以下、面倒になったので Mr.Flat の人格論に統合することにしました。
そちらをどうぞ。




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