恩人


松本八重先生

多分名前はあっている。 小学校3年生の時の担任だ。苗字が変わったと記憶しているが、この苗字が結婚される前なのか後なのか、定かではない。 この先生が担任してくれるまでは、私は今で言う多動症。 今なら、薬を打たれて大人しくさせられるタイプの児童だった。 成績は優秀だったが(自分で言っちゃいます)問題児と見なされていた。 この先生は、きちんと児童の話を聞くことが出来た。 母親と爺さん婆さん以外の大人との初めての信頼関係ができた。 お陰で授業が面白くなり、私は学校が大好きになった。

袋瀬六松先生

   ここ 強烈な個性の先生だった。

加藤和男先生

高校の時の恩人だ。 この先生も目がギョロっとしていて、髪の毛は剛毛だった。
とにかく「掃除をしろ」「掃除をしろ」と煩かった。掃除をしていると、心も掃除されるって意味だ。
厭世的なところがあって嫌われそうな事を平気で口にするし、例外的に科長の先生(この先生もとてもおもしろかった)とはとても仲良かったが、他の先生方や生徒からは変人扱いされていた。 ホントは、見かけとは違って、実際は非情にナイーブで内には少年のようなピュアな情熱を秘めていたと思う。本人はヤスパースが好きだと言っていた。
昔の人なので、気合は入っている。授業は完璧だった。他のどの先生よりも教育熱心だった。 この先生が黒板に書く漢字は、旧漢字だ。後にも先にも旧漢字の授業はこの先生だけだ。 最初は授業だけだったが、そのうち、授業の合間に自分でガリ版印刷した資料で色々な話をしてくれるようになった。 若いころは色々やっていたみたいだが久しく止めていたのを、私のクラスとは波長があったのか再開しようという気になったみたいだ。 話の内容は、歴史が好きで高松塚古墳とか奈良とかを自分でいろいろ調べて回った話題が多かったと思う。鉄筆画はそりゃあ見事なものだった。 今だったら、きっとブログを書いているに違いない。
私が教育実習で戻った時には、夜間部の先生になられていたと思う。
「お前は、すぐに自分の哲学を確立して、自分の道を行くようになるだろう」と言われたが、確かに私は「私」を発見して、今の私にはなったが、はて、どうなんだろう? 先生の期待には沿えたのだろうか。
いや、勝負はこれからだ。
こうやって、自分が苦しいときに、別に、苦しくなくとも、この先生を思い出すと頑張ろうといく気が起きる。
ホントの意味で、恩人だと思う。

三沢重吉先生

高校で物理を教わった。 この先生が面白おかしく授業をやるもんだから、私もつい物理を専攻してしまった。
ある日の授業で、霧箱の話をしてくれた。 泡箱よりももっと簡単に且つ、安定して観測できる方法だ。 ちょっと違うけれどこのようなものだ(原理は一緒)。 私は実際に自分の見てみたくて、自分でエタノールとドライアイスを入手し、蓋は金属製が良いとのことでネスカフェの瓶で試してみたが上手くいかない。そこで、そのセットを持って先生のところに行った。 瓶が良くなかったみたいだ。保健室にあったシップかなにかの練り薬の瓶でやったら、上手く見られた。 放射線源は用いず、宇宙からの宇宙線のみの観測でしたが、数秒に1回。 それは見事な飛跡が見られました。
今から考えると、個人授業だな。特別扱いしているとPTAからクレームが来そうだ。

亀谷俊司先生

私の出た大学で、唯一人「こいつはスゲェや!」と関心した先生です。
こういう人の講義を生で聞けるだけでも、大学にいった甲斐ががある。 広い階段教室での授業でしたが、教科書は使わず黒板に書きながら、か細い声でやるので、学生の私語は皆無。 シーンと静まり返った中、黒板とチョークの擦れる音だけが響く緊迫の授業でした。
この先生も時々脱線した。話題は、オーディオの話と蘭の話がメインでした。 レーダ用の真空管でアンプを作ったとか、そういう話だ。 蘭も大好きで、蘭には、どう考えても、これは後から人間の手が入ってそういう蘭になるとしか考えられない、そういう蘭がある。とも仰ってた。 また、歴史に関してはその時々は兎も角、俯瞰して長いスパンで見ると、概ね良い方向で進んでいるのは間違いないとも。 数学は感性だとおっしゃってましたが、美しいものが好きだったんだと思う。
そうして、人類の歩みは大きな流れでみると良い方向に進歩していると信じて居られた。
この凄い先生が、事ある度に褒めていたのが 小平邦彦先生。 う〜ん、どんだけ凄いんじゃあ。
もう少し若い時に出会っていれば展開も違ったと思うが、出会った時、私は既に違う道を歩み始めていた。




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