ペンネーム Mr.Flat
← のイラストは、姪が描いてくれた。見た目はこんな感じらしい。
縄文系とかアイヌ系とか言われるので、そうかも知れません。
2010/9 の日記より:嫁さんが夢を見たらしい。
老後の私がこのペンネームで一生懸命物書きしていたらしい。
更に、この数日後、朝のTVの番組で Mr.Flat とはスラングで 「おばかさん」とか「おめでたい人」という意味です、って誰かが説明しているのが 布団の中から聞こえた。もしかするとこれも夢、幻聴だったかも知れませんが、これで私のペンネームは決まった。
どう転んでも、今更転ぶと骨折するのが落ちですが、この先も物書きにはなれそうにないんですが、まあ、このサイトの筆者のペンネームとうことで良しとしよう。
明治4年産まれの爺さんが残した家系図によると、元は「藤原」姓で東北の梅木(うめき)という村の出身らしい。
もっとちゃんとした詳しい家系図があったらしいが、江戸の初期に出火して焼失。
と聞いたが、もしかしたら、南海地震で津波でやられたかも知れない。
忘れてましたが、わが家の方には山の中腹に「みょうけんさま」と呼ばれている鳥居があって、地震の際はそこまで逃げろという場所がある。
実家はそこよりずっと低い。
我が家のメインの畑は、みょうけんさまの奥にあって小屋がある。水源も近くにある。
戦争中も家宝の刀はそこに隠しておいたらしいので、地震の際、駆け上がる時は刀ももって上がったに違いない。
爺さんの記憶が頼りの家系図なので話半分。と言っても、私みたいないい加減な性格じゃなかったので、真実は兎も角、彼はそれを信じていたと思う。
私が持っているのは、本家の叔父がワープロで印刷したやつ。
あまりありがたくない。
で、追われて故郷を後にした落人は、良くもまあ逃げたもんだ、伊予の小さな漁村まで辿り付いた。
そこで、姓を変え「国造神社」の神主として、爺さんの代まで仕えてた。
祭の時は活躍してましたが、普段は朝晩2回、神社で太鼓を叩くだけだ。
あと、氏子が相談にくると、占いしてた。
木の筒に、なんか書いている棒がいっぱい入っていて、振って出てきた棒を見て偉そうなことを言う。
あと、神主とは関係ないかも知れませんが、天狗からもらった石 があった。
色は真っ黒で、滑らかな形だった。いろいろ効能があって、痛い時にそれを添えると治ると。
私が蜂に刺されたときも、頭にそれくっつけてろ、と言われて暫くトライしましたが、私には全然効きませんでした。
信心がないからか?
爺さんで34代目、ということは私は36代目ということになる。
鎌倉幕府が1192年とすると約800年前、36代とすると1代あたり22年、
それほどおかしな数字じゃない。
本家の墓を見ると、小さいのから大きいのまで、確かに一杯あって中には○○太夫とか名のつく墓とかもあるので、いつからか分かりませんが、暫く神官をやっていたのは確からしい。
私のパイプ煙草はこの爺さんの遺伝だな。
ちなみに、母方の方は、今で言うコンビニみたいな商店もやっていて、タバコも売っていたのにヘビーに煙草を吸う人の記憶がない。
父方の爺さんは、キセルでしたが、火鉢の前に陣取っていつも吸っていた。一度鼻をかんだちり紙も火鉢で乾かして再利用するというエコな人でした。1/3程度農家だったんですが、このころから放置農法だったかも知れません。
我が家のスイカは小さいので「なんで小さいの?」と訊いたら、肥料が足りないからだ。じゃあ、もっと肥料を殺れば良いのに、と子供心に思ったが、人糞を肥溜めで発酵させてやるだけ、それ以外なにもしない、完全リサイクルな農法だった。
田舎の神主なんて儲かる職業じゃない。メインは教職だった。
親戚にも教職が多い。
教職ったって、うまく取り行って校長とかまで上り詰めた人は居ないが、江戸時代には寺子屋ならぬ、神社子屋をやっていたという記録が残っていた。庶民派だ。
曾爺さんの残した自伝には、そんなことは一言も書いてなく、当時はまだ埋め立てしてなかったので、我が家の実家の前は直ぐ海。
窓から、釣り竿をさげることも出来たらしいが、毎日、小船を出しては釣りをして過ごしていたとかそんな事。
どうせ、真面目に釣りをするというよりは、ぼーっとして居たんだと思う。
コヒーレント思考だ。
農家も多少みかんは出荷してましたが、みかんはそんなに手がかからないし、残りは自分の家で食う分だけだ。
ニワトリかって、山羊かって、ときどき小舟で釣りをする。自足時給だ。
で、神主も暇。コヒーレント思考はきっと家系的にはこっちの影響が強いと思う。
母方は次に述べるように商売をやっていたので、悠長なことは言ってられない。
商売はスピードが肝心。次から次へと決めることがある。
父方はひっそり隠れ住んでいただけで別に今の日本に全く関係ありませんが、
母方は商売をやっており、昔のこの地方の記録には時々名前が登場する。
そうして、現代史にほんのちょっと関係してくる。と言っても、直接は全く無関係ですが。
その辺りの事情を良く知っている身としたら、Wikipedia に書いてあること、
いかに都合よく書かれているかが分かる。
と言うのは、彼は末っ子で母は育児を拒否。
どこかに貰われてゆくハズが、代わりに長女が育てた。
その長女が母方に嫁いできたんだが、育てた弟は時代の波に乗り海運業で大儲けした。
山下汽船の創業者、山下亀三郎です。
という訳で山下汽船とは縁がある。
創業者の書いた掛け軸が我が家にもある。
爺さんが亡くなったとき、遺産で貰った。捨ててないので探せば今でも多分どこかにある。
その山下汽船に、曾爺さんが知り合いから頼まれたある若者を口利きして就職させた。
となり町の駐在所の息子さんなんですけどね働き先がなくて困っていたらしい。
一番下っ端で入ったのに、とっても優秀だったらしい。
メキメキ昇進し、山下汽船の重役にまで上り詰めた。
しかし、その重役よりも、もっと有名になったのは、その息子たち。
弟は俳優で既に亡くなってますがとても人気者になり、兄の方は作家を経て今は政界に進出して皆さんにご迷惑をかけてます。目、シバシバする人です。
この2人、そんな訳で子供の頃は創業者に連れられて(お父さんと一緒ですが)母方の実家になんどか来たこともあったらしい
(本人たちは覚えているかどうか分かりませんが、町の人は覚えてる)。
嫁さんの両親が弟さんのファンで、夏の旅行で記念館へも連れて行ったことがあるが、
記念館のある小樽は山下汽船の海運基地があった場所らしい。今の倉庫街だ。
//その、小樽の記念館も 2016/8 閉館になってしまいました。
他方で、私の学友、教師になったのが多い。ちょっと左っぽいのが多くて、国家斉唱時に起立せずに、処分されて、その処分を不当だと訴えてた方の原告になっている奴も居るが、私の曾爺さんが口利きしてなければ、こういう事態にはなってないのかも知れないと思うと、ちょい複雑。
一人の何気ない行為が、下手するととんでもないことを呼び起こすかも知れない。
ブラジルで蝶は羽ばたいただけで、アメリカが嵐になるくらだから、何がどう影響するか分かったもんじゃない。
ちなみに、宮沢喜一の父親も山下汽船勤務です。
さて、成金はやること決まってます。山下亀三郎も上流階級と婚姻関係を結んで、いろいろやっていたみたい。
これが効をなさなかったのか、はたまた東條内閣顧問をやっていたのが裏目にでたのか、
財閥解体の憂き目にあって、今はどーなっているんだか(商船三井になってますね)。
さて、昔の成功者は、昨今の成功者と違って故郷を見捨てず貢献したものだ。
その山下汽船の創業者は自分の出身町と私の故郷に山下女子学校を2つ設立した。
私の故郷は勿論、自分を育ててくれた姉が母方の方に嫁いできていたからだ。
田舎に帰省するときも、自分を里子に出そうとした実家よりも、育ててくれた姉の方に帰った方が気が休まったみたいで、その嫁ぎ先、つまり母方の実家に当時は沢山のお土産をもってしょっちゅう来ていたらしい。
私の田舎の山下女子校は、その後、県に寄付して県立高校になってましたが、昨今の統廃合で廃校になるらしい。ひょっとしたら、もうなっているかも知れません。
その一期生が私の母方の婆さん。
貧乏な家の出だったらしいが、卒業後成績優秀で東京に留学させてもらった。
今の共立女子らしいが、そのとき関東大震災に遭遇する。
私の生まれ育った町は、東京からは遠く離れた愛媛の片田舎なんですが、私が子供の頃、婆さんから東京で起きたそのときの様子をなんども聴かされた。
その婆さんの浜辺で遊ぶ若い時の姿を二階の窓からこっそり眺めて居たのが私の爺さん。
婆さんは、明治の人なのに164cmもあってデカかった。
チビな爺さんなんか趣味じゃなかったと思うが、
山下家にご恩があった婆さんは申し出を断れなかったらしい。
身分が違うと、最初は随分と苛められたらしいが、その彼女が母方の家に新しい息吹を持ち込んだ。私が直接知る私の祖先の中では一番まとも、というか
「普通の人」の感性を持っていた。これ、とても大切な事と思う。
私が知っている二人はとても仲が良かった。
爺さんは年老いてからも、綺麗な女優さんがTVで出ても「お前が若いときはもっと綺麗だった」と言ってたらしいが、婆さんは綺麗だったと思う。
でも遺伝は得てして劣勢遺伝する。
私の母は145cmしかなかったし、容姿も彼女の母親には似なかった。
あっちゃーっ!
私の嫁さんも背が高い。それに婆さんのイメージと重なるところもある。
でも私は爺さんと違って、嫁さんよりは多少背が高い。でもマジなヒールを履かれると、私もシークレットブーツを履かないと格好つかないかも。
思想的には父方は「武士は食わねど高楊枝」のようなところがあった。
家宝の刀があるので、逃げてくる前は武士だったのかも知れませんが、神主だ。
あと茶釜もどこかにあるハズなんだが見たことない。
清貧を良しとした訳じゃないが、「足る」を知り、贅沢とは無縁な生活だった。
爺さんなんか、あと一口、下手すりゃ半口なのに、ご飯、ちょうど良いと思うと決して食わなかった。あとはニワトリの餌になる。
で、気位だけは高かった。
良く言えばそうだが、悪くいうと実力が伴わない気位には辛いものがある。
ずっと食わない分けには行かない。
なので、私の父親なんかは、まあ、言ってしまうと父方では異質で落ちこぼれだ。
辛かったと思うが、お姉さんが庇うので余計に意気地なしになってしまった。
頑張り屋さんが多く、私の父親を除いてそれなりの立場で活躍されていた人が多いが、でもなあ、父方は、発想が自由とか、才能があるとか、そいうタイプじゃない。
母方は商売をしていたので、思考はもっとずっとリアルだ。
で、もっとずっとお金持ち。
私が生まれた頃は、商店がメインだった。
今で言うコンビニを大きくしたような店。
洋服は売ってませんでしたが、なんでも売っているお店だ。ラジオとか鍵とか、お酒もタバコも。
で、広い敷地内にまだ醤油工場がのこっていた。
奥の隅には茶室もあった。
取り壊した工場の跡地では、養鶏も始めていていた。
私が生まれたころはまだ建物もいっぱい残っていて、人が住める建物は賃貸で貸して、残っている工場の1つには、中学校の美術の先生が住んでいて画廊みたいにして使っていた。
江戸時代には船も所有し、近隣の町は勿論、対岸の九州にまで工場で作った醤油を出荷していたらしい。
その前、石油が入ってくる前はロウソク工場ももっていたようだ。
当時、裏の山はほとんど母方の所有でロウソクをつくるためのハゼが一面植わっていたらしい。
更に思考がリアルなら、船があるなら、自分のとこの商品を運ぶだけじゃなくて、もっと色々展開ができただろうにと思うが、そこまでは気がまわらなかったのか、展開話は聴いたことがない。
まあ、その程度だ。
それ、やったのは山下亀三郎だ。戦争物資を運んだので戦争成金ですが。
既に述べたが、母方の婆さんの家系が一番発想が自由で頭が良い。
田舎の観光名所になっている
須崎観音を建立したのは、婆さんの弟だ。
私からいうと大叔父かな。
大風呂敷の五郎と呼ばれていて、広げるだけ広げて、広げた風呂敷はしまえないと揶揄されてましたが、とても愉快な人だった。
婆さんもこの人をずっと信頼していた。
お前は浜田家の血が出ていると回りからよく言われたが、私もそう思う。
父親系からみると、私も父親とは違う意味で、かなり異質な存在だ。
大風呂敷の五郎さんとその上の兄弟は、ともに漁業会社を立ち上げた。
どっちがどっちか忘れましたが、船の名前は愛媛丸と大洋丸だ。
南シナ海を開拓したのはこの会社だ。で、ここの船が中国軍? から機関銃掃射されて NHK のニュースで報道された。
魚群を追っていると、つい領海をでちゃうんだと(今はもう東シナ海にもあまり魚は残って居ないようです)。
で、長く、漁業会社をやっていると、嵐の日にも遭遇しよう。
で、何隻も船を沈めることになる。
船で亡くなった人の魂を慰霊する為に、この観音様を作った。
この家系はみんな頭が良かったが、後をついだ ○君、末っ子で私と同い年ですが彼は例外。いい奴だけれど、頭が良いってタイプじゃない。
で、受け継いだ会社も閉めてしまい、さて、今はこの観音様どこが管理しているんだろう?
私が赤ん坊の時の写真だ。
しかし、良く観るとこの時から頭でかいなあ。
今の小僧は知らんと思うが、昔は学校に行くのに学生帽を被る訳だ。
小学1年生の時は、55cm、中学に入るときは57cm、高校は59cmだった。
高校の時は知らんが、小学校と中学は学年で2番目に大きかった。
一番でかかった奴は、サッカーではヘディングを得意技にしていた。
私は頭は硬かったんですがスポーツは苦手でした。
あいつ、今頃どうしているだろう?
その後待っている苦労も知らず、
泣かずに、ニコニコと笑いながら産まれてきたらしい。
で産湯につかる際に玉の肌、水をはじいて、産婆さんが、この子は10年に一人、
偉くなるとか言ったみたいで、母親は随分喜んだそうな。
冷静に考えれば、10年に一人が本当でも、1万人くらいの小さな町なので分母は大したことない。
それほど珍しい訳でもない。
それに、そんな変な期待されたら子供は大変だよ。
まあ、出来損ないの息子は母の期待には応えられませんでしたが、
自分自身の夢は完全に超えた。
子供の頃、あーなりたい、こーなりたいと色々考えたものだが、そのどれよりも
先にまで来れた。逆に言えば、その程度の事しか子供の時、夢見てなかったって事だ。
慎ましい子だったんか?
まあ、人生は思っても見なかったようなことが起きる!
生きるとは生き恥晒すこと、と言ったついでに晒しておく。
もっと恥ずかしい時代があったが、そのころの写真を載せるにはもっと心を整理しないと(^_^;)。
これは、学生時代の後の方で、もう今の私に向かって歩み始めている。
茅野の友人が私のカメラ(Pentax MX) で撮ってくれた一枚で、諏訪のどこかの神社かお寺。
このころも、まだ髪の毛が長かったので計ると64cmくらいあった。
高校時代、我が家は貧乏で奨学金で行ったんですが、昼飯を抜いていたので身長は伸びず、気が付くと頭だけが成長してた。中身じゃなくて骨、頭蓋骨。目の上というかおでこの下というか、丁度ゴリラも出っ張っている部分ですが、そこがどんどん隆起してきた。
先祖返りか?
ゴリラは見かけと違って、チンパンジーより穏やかなので良しとしよう。
片やウエストは、73cm で嫁さんと(まだ知り合ってませんが)同じ30インチのジーンズが穿けた。
体重は線を引いたように、常に65kg だった。だったのに、今は何?
ま、多少食って太り気味の方が、体力はありますね。
サングラスは丸井でかったポルシェデザインの当時流行った奴。
丸井の赤いカードは貧乏学生の味方でした!