Mr.Flat の感情論

以前のシリーズ が終わる前に、気が変わって、新シリーズです。
感情論をやります。
一応、以前のシリーズ の続きものなので、前シリーズも観てね。
2017/4/29

さて、GW サービス

今日はとても重要な話をする。

私はダマシオに教わるまで、ず〜っと勘違いしてました。
私以外にも、相当するの人が勘違いしている。
ダマシオ曰く、感情は爬虫類以下の下等生物にはない
多少あるかも知れませんが、我々のような豊かな感情はない。
言われると、ハッと気が付きますが、確かに、感情は、高等生物である証だ。
ところがだよ、感情というと良いイメージがない。私もすっかり騙されていた。
一つには感情豊かな事と、「感情的になる」ことを混同するからだ
感情的になる余り、ものの通りも理性も忘れて暴走するのは、確かによろしくない。
感情はず〜っと否定された存在だった。

でもな、冷静に判断すると、感情的になって暴れても普通はみっともないだけで、大した悪さはしない。 むしゃくしゃして、夜中に車をぶっ飛ばして、人身事故は拙いが、電柱にぶつかってローンが残っている自分の車をオシャカにするくらいなら許す。 嫁さんは許してくれないかも知れませんが。
それよりずっと冷淡でぞっとするような悪さをするのは、サイコパスだ。 彼等は、通常の感情を伴わないでそれを行う。 なので、ネットでは面白半分に「爬虫類型人間」と呼ぶ。
最近は映画にもよく登場しますが、サイコパス。 ネットでは引っ張りだこですが、このサイコパスと普通の人の違いは、先日のA型とB型の違いを遥かに超えますね。 ただ、普通の人は残念ながらサイコパスの存在を良く理解していない。

だとしたら、感情的な人をそれほどけなす必要もない気がする。
典型的なサイコパスは、裏で凄い悪さをしてますが、ところが世の中には、余り悪さをしないサイコパスが居る。仮に「良いサイコパス」 と呼ぼう。 彼等は感情にとらわれない分、自由な発想で、頭の回転が良く、社会でなにかを行う場合、優れている場合が多々ある。 サイコパスに多い職業として、米国では企業の経営者という調査結果がでてますがうなずける。 出世したければ、サイコパス気味である方が優れている。 トップにならずとも、部下としても、良いサイコパスは簡単に人を裏切ることもなく優れた能力を発揮する。

内情はともかく、外から観察する限り、そこで優秀な彼等は「理性的」だ
しばしば、感情的という言葉と対義語として、理性的という言葉が使われるのを見ても分かる。
この意味で、親や教師が、理性的であれ!というのは、十分理解ができる。
さりとて、感情全部を否定することはないだろう。 私は、感情豊かなまま理性的判断もできるのが良いと思う。

理性的であるというのは多少分かりやすい。
感情的、というのもある程度分かる。 感情的とは違って「感情豊か」であるというのはどういうことか?
簡単です。
例えば、なにか、挑戦して成功したら、思う存分「やった!」と思うことです。 感動するべきところでは、思いっきり感動するんです。
それは理性と矛盾しない。
全く感情を伴わないで、その喜びを分かち合う人おらず「僕が一等賞になるのは当たり前のことさ」などと言ってみても、虚しいだけだ。 多分、彼はなんでも当たり前の帰結にしてしまう。 後から観測する限り、当たり前の事以外は起きないので、 当たり前といえば当たり前。 ですが、感動は、想像を超えたところにあるんで、それを最初から当たり前ですなんて言ってたら、感動なんかそもそもあり得ない。
愛する人が居るなら、理性で愛していることを確認するだけじゃなくて、感情をともなって活き活きと愛を感じながら愛してどこが悪い!
逆に、例えば悲しいとき、そこで暴れちゃうと感情豊かではなくて、たんなる「感情的」になるんですが、暴れる必要はない。 心の中にぽっかり穴が開いて、空っぽになったように感じるかも知れませんが、 とことん、その悲しい気持ちを味わってください。 恐らく、また暫くすると希望の光がさしてくるかも知れません。 難しいですが。
同様に怒り。映画「善き人のソナタ」の冒頭にあるように、怒りの感情は隠しづらい。 怒りの裏には、善の気持ちがあって、それが無慈悲に否定されたり、分かってもらえなかったりするからだ。 怒っても、その感情に身を委ねて暴走すると、ただの「感情的」な人に成り下がるだけですが、そうじゃない。そういう時こそ、頭を使って対応する必要がある。怒りを力に変える。
このように、感情と理性は即矛盾する訳ではない。
人によって、その人が許す程度は様々なレベルですが、喜びも愛する気持ちも、悲しみも、怒りも、感情を伴わずに理性で判断したとして、どうよ?
貴方はその状態を想像できますか?
私は、感情豊かなまま理性的判断もできるのが良いと思う。
感情は、気持ちは、思う存分感じるのが良い。(と、ここでシモネタを書こうとしたが、後で嫁さんに見つかると叱られるので自制)、なにも不都合が起きないし、それどころか、人生が豊かになるだけだ。

ところが、人には感じにくい感情がある。
純粋な悲しみというよりは、「傷ついた気持ち」と呼ぶほうが良い。 それは貴方の存在が否定されたと感じた時だ。 相手が実際に否定したかどうかじゃない。貴方が否定されたと感じた時だ。
別にどうでも良い奴が否定してきても屁でもない。 そうじゃなくて、貴方が大切に思っているひとが、貴方を否定した場合だ。 小さな子どもであれば、母親はその子の全てと言って良いくらいの存在なのに、まさにその母親に否定される場合だ。 親離れしてしまえばウザいだけだ。 完全に自立してしまえば、自分の存在にとって他人は必要なくなるかもしれませんが、そうでない場合には、その自分の存在にとって必要な人から自分が否定されるのは傷つく。
それがホントに傷ついているなら、その痛みが耐えられないくらい大きければ、人はその感情を隠す。 人には感じにくい感情があると述べたが、その現実を受け入れるにはあまりに大きな感情であれば、人は自分の心が壊れるのを防ぐために、一時的にその感情を隠す。 隠して、無意識の中にかためて置いておくことができる。 大怪我をしても痛みを感じなかったりするように、生命が持つ緊急時の生命維持機能のようなものだ。 今更、敢えて言うほどのものでもないが、これがフロイトの言うコンプレックスだ。 他人より劣っているところを突かれて、そこから否定されることは確かに多いが、 別に劣等感に限った事じゃない。
この話は重要なので、また日を改めて書く。

実は、愛のとこでもちょろっと触れたが、他人の存在は無視するようなものじゃない。
自分の大切な人と、一緒に喜ぶ。その人が悲しんでいたら一緒に悲しむ。 心が通うとき、それは貴方の人生を豊かにします。 ホントに信頼できる人がどれだけ居るか、それが貴方の強さになる。
逆に、そういう人からの否定は、重く心にのしかかる。
母親しか居ない時の母親からの否定。 無償の愛が与えられなかったそこ子の人生は半分くらい決まったようなものだ。 社会性が芽生える頃には、父親の愛が必要になる。 尊敬する父親に認められようと頑張っているのにその父親から認められず否定されたり、そうでなく社会から、大好きな父親が否定されて、駄目な父親を認めさせられることは、どれほどその子に辛い思いをさせるか、貴方には想像できるか知らん?
尊敬できる大好きな父親がいる貴方は幸せです。

私には、コイツは絶対裏切らないという友が居る。
裏切り様がない。なぜなら、そいつはそういう奴だからだ。
万が一、その友が私を裏切ったら?
全然OK。なんかそれなりの理由があるんでしょう。別に気にしない。
彼と過ごした6年間は、その程度じゃあ否定できん。
彼と過ごした時、その時は「感情豊か」なんて思っても見なかった。 変なことばかり言うので、私はいつも怒ってた。 で、思いっきり手加減なしでその感情をぶつけた。 って、別に殴ったわけじゃなくて論駁した。 コイツとは絶交しようとなんど思ったことか。 その月日の結果が、今の私だ。 もうちょっと正確に言うと、今の私の方向に向き始めた。
私には幸いな事にこういう友が何人も居る。
他方でダマシオに言われる前に、すでに私は「感情豊か」に生きることがどういう事なのかを体得していた。 以前の私ならダマシオがなにを言っているのか頭では理解できても、悟性として理解できなかったかも知れんが、その準備は出来ていた。
告白すると、私は厚かましいが、そうそう「感情豊か」な方じゃない。 一応理系だし、気持ちで動くO型は入ってますが、BOのBだ。Oは裏でB型の方が優勢。 B型は頭で考えるので、夢中にはなりますが「感情豊か」という感じじゃない。
誰から「感情豊か」に生きる生き方を教わったか? はい、嫁さんです。
簡単に言うと、彼女は不思議な人で、次から次へと変なことを初めて楽しんでます。
超簡単に言うと、人との出会いが人生を変えるってことだ。

2017/5/2

人生をやり直す




2枚目は1枚目のリメークです。
3つ目は、今 wowow でシーズン2を放送中で、結末はどうなるか分かりませんが、テーマは同じです。
優秀な諜報部員だか、戦闘員だかその手の人が、敵の組織に潜り込むため一時的に記憶を書き換え、or 失って、別の人間として潜り込む。 敵側で信用されて受け入れられて暮らしている間に新しい人格を作ってしまう。 ところが、物語なので、そのうち元々の自分とその使命を知る事になる。 で、今の人格と元々の人格の間に齟齬を生じ葛藤する。
私の言葉でいうと、冷血非道なサイコパスが一時的に記憶を失い、普通の暖かい人の間で間で暮らすことで、普通の感情豊かな人格を形成する。 で、昔の人格との間で悩む訳だ。

これは物語ですが、これをみるとその時々の「人格」なんていい加減なもの であることとして描かれてます。 私も人の人格なんか、超適当で周りの状況が変わればどんどん変わるものと思う。 「これが俺様」って存在ははほとんどの場合誤解、というか思い込みで、本人が自慢するほど確固たるものではない。 わざわざこんなものを持ち出さなくても、311以降の多くの学者や知識人の変節をみれば、そういう人々がいかにいい加減な人達だったかがわかる。 その学者や知識人の人は、良い人と思われていたのに、悪くなってしまうという方向ですが、物語は逆だ。 悪い奴だったのに、それもほとんど人間じゃないと思うくらいなサイコパスだったのに、そうじゃない「普通の自分」に目覚める物語だ。 サイコパスになるにはそれなりの過程があった訳ですが、一旦記憶をなくすことで、物語ではより別人格になりやすい状況を作り出しています。
ともあれ、人格は変わりやすい。
牧師の前で永遠の愛を誓っても、相当数の割合で離婚する羽目に陥るのを見てもわかる。まあ、もっと正確に言うと、元々、相手を誤解している場合もあるし。単純に人格が変わったとはいえないところもありますが。

2つの物語には共通点がある。
1つは、どちらも後者の人格を「より自分の人格」として生きることになる。
そうして、後者の人格は「愛されて」築いたものだ。 サイコパス時代、彼等は非常に優れていて組織内ではそれなりの高い地位を得てはいたものの、決して愛されては居なかった。
全てが明らかになった上で、どっちの自分を採るか? 物語の主人公はどちらも後者を自分として、新しい人生を生きる事になる。

サイコパスになる過程、
トータル・リコールでは、クエイドがいかにして極悪非道なサイコパスになったかのかは描かれていないが、ジェーンは難民の子という設定ですが、保護された組織で、いつもの超有名な「儀式」があった事になっている。 その儀式というのは、ここでも何度か紹介したが、子供ペットを与え、ペットが懐いた時を見計らって、自分の手で殺させるという儀式だ。 感情を理性の元に従わせるという儀式だ。

そういう意味では、311以降変節した人達も、いい年こいてから、通過したのかも知れない。
例えば、こんな感じの。
恐らくホントのことを教えても救える人は高々知れている。
それよりも、ここは嘘を吐いてでも収めることが日本全体を考えるとずっと国益になる、見たいな、頭で考える理性的な判断が働いたのかも知れない。
それに、賢い人ならこんな嘘には惑わされないで自分で判断できるだろう。
そういう意味では、犠牲になるのはどちらかというと下層の人たちで、日本全体を考えるとどうでも良い人達だ。 そもそも田舎は今の日本じゃ都会のお荷物。それこそ「東北でよかった」レベルだ。 ここで自分のつまらないプライドを捨てずに頑張るのは単なる自己満足。 そこで突っ張ったが為に、自分が受けるその後の待遇を想像すると、つまらない自己満足なんか捨ててしまうのが理性的な判断だ。それが日本の為になる。
さあ、この「踏み絵」を踏めますか? 貴方は理性的な判断ができる意識が高い人ですか、それとも愚民ですか? みたいな、儀式だ。
でもって、それまでは取り敢えず善良?な学者や知識人だったのに、御用学者やプロパガンダを垂れ流す太鼓持ちに成り下がる。

以前も述べたが、企業に勤めると、こういう儀式が幾つも待っている。
幾つもの自分の感情と組織の論理が矛盾する状況で、どれだけ組織の理論に従って理性的に判断し行為できるか?という儀式だ。ブラックな企業なら余計そうだ。
そもそも、アホな上司を上司として認めることすら、そういう意味では儀式になる。
そこで自分を通せば、出世の道は絶たれる。絶たれてしまえば、仮に「善い理想」を持っていたとしても、成り上がってそれを実行することも出来ない。 それを正当化する理由はいくつでも考えられる。
多分、もっと巧妙な誘導があるんだと思うが、私は知らない。 はい、私はそういう儀式からは落ちこぼれた人間なので、底辺の事しか知らない。
そこで合格したとしても、貴方の腹の中の感情は、それとは違うことを主張している。
それは「良心」とは違う。そもそも、私はいわゆる良心を特別なものとして認めてないことは、つい先日述べた。 貴方の良心は知らないが、私の良心は別に良いことだけ、善なるモノだけを指示しない。 これは良いこと、悪いことと指示するのは頭だ。頭の理性だ。 頭で考えた善悪の判断なら、それを覆す理由はいくらでも思いつく。 そうじゃなくて、収まってないのは「腹の虫」であり、その場合は怒りですが、怒りは上手い具合押し殺せたとしても、飲めない条件を無理やり飲まされたるなら、そりゃあ煮え湯を飲まさされるようなもので、食道に悪い。 消化できないものを飲んだら胃も痛くなろう。 出すにも出せない消化できないものを腹に溜めるならなら、そりゃあ腸に悪い。
それでも、人間続けるなら病気になるぞ!
そこから抜け出す、簡単は方法は、そもそも人格の統合なんか諦めて、サイコパスになることだ。 女子供(失礼!)の感情なんか捨て去って、大人になって理性の空に大きく羽ばたくことだ。 いわゆるサイコパスは極端でも、意識を高く持つことだ。つまり、良い(良くないけれど)サイコパスになることだ。
私の頃はまだ学校は伸び伸びと勉強する楽しい場でしたが、今の学校は、いきなりそういう儀式が待っているみたいです。 嘘だと思うなら、お孫さんに現在の学校教育の現状を聞いてみると良い。 ただ、その時に今の子は「忖度」することを教わってますから、誘導してはならない。 正直にホントのことを言える状況を作ってからじゃないと、決して本心を話すことはない。

311以降、変節した学者さんや知識人は、嘘吐きとして「人生をやり直して」ますが架空の人物、クエイドやジェーンは自分の気持ちに正直な人として「人生をやり直し」しようとしている。
私は映画や小説だけではなくて、実社会でも「人生をやり直す」のは可能と考える。 自分に正直に生きるようにやり直すのも、反対になんだか知りませんが高い意識に導かれて生きるのもも、その人次第だ。 つまり「自由」。それが人間の本質だと思う。 それがなければ、人も単なる高等な類人猿にすぎない。
前者、自分に正直に生きるのを選択した場合、これ自分一人だけで生きるのは実際問題意外に大変。 映画のように心の支えがあると随分と楽になる。 実際に会ったこともない人の生き様も力になることがあるが、現存して話ができて触れられるそういう人に出逢えたなら、自然とそう生きようと判断すると思う。
で、思うんだ。もうちょっとお金儲けができる方向に軌道修正したいなあ、と。

2017/5/3

誘導

マスコミを使った洗脳というと言葉がわるいので「誘導」といいますが、これはますます巧妙になってきてます。
先日、犬が散歩でオシッコするので交通標識の支柱がサビて折れる!というのがニュースになってましたが、これは分断工作です。 嫌煙運動をやって、喫煙者と非喫煙者の間に超えがたい深い溝をつくったのと一緒。 次の対象は、アルコールで進められてますが、ペットも一緒だ。 こんどはモラルのないペットの飼い主、ということで差別し分断しようとしている。
管理する側にとっては 庶民がまとまるのが一番脅威
そこで、各家族制度も一緒ですが、庶民が纏まるを防ぐために、利用できる分断はなんでも利用する。このペットのニュースもこの工作の1つの現われだ。
以前からあった有名な分断工作に、無用な検問、なねずみ取り、職質をやらせて、警察と庶民の間を切り裂く、というのがあります。 お巡りさんの配属先もどんどん変わるだろ? 武器の携帯を許されている警察と地域の住民が一緒になると、そりゃあ為政者はビビるわなあ。

こういうことを書くと、善良な日本人からは人間性を疑われます


そんな事考えてやっている訳がないと。
その通りなんだが、端折って言ったので誤解がある。
というのは、これ、西洋では植民地を統治する場合の、有名なというか基本中の基本の手法なんだよ。社会心理学の応用だ。
軽井沢に越してきて知ったが、良家の子供には、まず使用人の扱い方を教えるみたい。 そんなもの、貴方は教わらなかったでしょう? 庶民の学問には必要のない学科ですが、向こう側的発想で言うと、上級国民になる人にはマスターすべき必要なノウハウです。 泥棒には泥棒のノウハウが必要なように。
すでにマスコミや教育現場等でも用いられて実施されているから言うだけだ。
最近、目に見えて多くなってきた。それも稚拙なものも含めて。
まあ、直接手を下す現場の担当者、例えば学校なら教師ですが、教師個人がこんな事を考えているわけじゃない。ご指摘の通りだ。 現場では別のもっともらしい理由をつけて、上から指導が降りてくるだけだ。 個々の教師はそれとも知らずに、それを実行しているだけだ。 つまり、遠隔操作されていると言っている。

私は、
ホントはもっと優しいハズの貴方が、例えば喫煙者を必要以上に非人間扱いしていませんか?
ホントは分かり合える人を遠ざけていませんか?
それは本来の貴方ではないでしょう?
と問うている。

そもそも、支柱が折れたのは、飼い主のモラルとは直接関係ない。 交通標識に犬がオシッコをすることを想定して交通標識をつくっておけば済むことだ。 防錆対応するなり、定期的に交換するなり、方法はある。 そんなことは想定できん奴が予算(税金)を動かしてて街づくりを担当していることが間違ってる。 津波を想定せずに原発つくるのと本質的には同じ問題だ。 不適材不適所だ。 酸性雨だってまた増えるかも知れない。 嘗て、軽井沢駅北口には硫黄の精錬工場があったので、周りのお宅では至るものが錆びたといいますが、地域によっては、域特有の問題もあるのかも知れませんが、私は専門家じゃないので知りません。

それに、今度はペットとは、実に微妙な線を突いてきたものだ。
軽井沢だと、犬を連れて歩くのは一種のステータスで、レンタルドックもあります。 夏が終わると、都内では必要ないので、捨てていかれる犬も多い。 普通の人にはそんな非道なことは出来ん。
この場合お金持ちは、どちらかというと「強い」存在で、庶民はお金持ちに対する反発や妬みみたいなものを誘導し易い。
他方で、ペットを愛するということは「人間的な優しい気持ち」感情を持っていることの現れでもある。 なんども言うが、だからこそ感情をコントロールするための試練として、彼等はペットを自分の手で殺させる。 庶民はそんな試練を受けませんから、どちらかというと優しい気持ちをまだ有している「弱い」存在だ。それに、金持ちでもないのにペットを買うというのは、攻撃しやすい対象だ。 ちゃんとマナーを守らないというのはもとより、ペットに難癖を付けるつもりなら非常に簡単だ。 臭いとか、うるさいとか、病気を持っている等、and so on。
なので、お互いを煽って分断工作するには非常に工作しやすい対象だ。

学校でも、攻撃しやすい生徒を攻撃して、一種の見せしめだ、生徒を管理するというか統率しようとする教師が居る。 これやると、統率できてもそのクラスが纏まることはない。 で、生徒の間には虐めが蔓延する。

更に、ペットを実際に飼ってみて思うが、犬はホントはリードなんか付けて飼う動物じゃない。リードなんかなくても、信頼関係が築ければ犬は飼い主の意図をきちんと読み取り(忖度じゃない)、言うことを聞く犬に育つ。 ネコも外猫が正解だ。犬はともかくネコはパニックになると固まるので、直ぐに轢かれて死んじゃいますが。 日本人はオスの馬でも去勢せずに飼えた民族。 ペットの波長に正しく合わせることができる優しい人は、みなそう思うハズ。
ところが、そういうのとは矛盾するマナーを現代社会は要請する。
つまり、これは ダブルバインド にもなっているんだ。

2017/5/8

映画鑑賞会

先週末の金曜日と土曜日は知人とその家族がきて、夜中まで映画鑑賞会になった。
一人、中学生が居たので見たのは主に彼が選んだ作品。



一緒に観た知人はシュールと形容しましたが、確かにシュールかも知れない。
川原亜矢子の足、細すぎ!ってのはさておき、実録版の役者は結構凄い。 今回、私が注目するのは薬師丸ひろ子演じるお母さんの望みだ。 子、正太郎には、日本を背負ったロボット博士のお父さん、阿部寛演じる正一郎とはちがって「普通の人に育って普通の人の暮らしをして欲しい」と言う。
市民でも有権者でも、中産者でもなんでもよいですが、この普通の人 という概念は非常に大切だ。 私の大好きな言葉です。
確かにそういう時代はあった。
ところが、現状をみると、まだ自分はまだ普通だと思っている人は多いのですが、その大半はどんどん貧困層に追いやられつつあります。 他方で、普通の人だったら普通の人同士まとまれるハズなのに、「分割統治」が至る所に応用されて、分断されまくってます。 才能ある普通の人が活躍する場所も与えられず貧困層に追いやられる中、無能な利権者が 幅を効かせてどんどん酷い世の中になってきてます。
そもそも「普通の人」なんか存在しない。幻想。 もし普通の人で居たいなら、それは自ら勝ち取るものだ。と私の上の世代なら言うかも知れません。でもな闘って勝ち取らないと得られない普通は、十分特殊だと思うぞ。
他方、逆に私より下の世代なら、産まれた時から階級があるのは当然と受け入れ、普通の人の存在なんか全く信じていないかも知れません。 今の学校も、一握の優等生と、その他大勢のヤンキーしか居ない状況では、そりゃあ「普通の人」を想像し辛いというのは良く分かる。
この普通の人が存在するには、前提として民主主義が存在しているように思う。 「話せば分かる」民主主義だ。 結論は1つにならないかも知れないが、なるわけないし、なる必要もありませんが、その時、相手がどう考えたくらいは「話せば分かる」。 話し合うことはディベートすることだと誤解している人も多い。 これは「彼等」の思考パターンだ。 話し合いは勝ち負けを競うものじゃない。 話せば気づくこともある。話がまとまる場合だってある。 独裁者からすれば、独裁者じゃなくても総督府からすれば、分断するに限る。
大切なのは、民主主義じゃなくて、民主主義っぽく見せること。 分断された人々、それぞれに自分たちこそ普通の人だと思わせること。



ゴジラは2度も言及したので今回は、セットとディスクの残りも観てみましたが、監督はエヴァンゲリオンの方なんですね。なるほど。
それ以上はスルーして、パシフィック・リムだ。
これ司令官が放射能に被爆して鼻血が止まらなくなるんですが、拙いことにこの映画とフクシマと時期が重なった。そういう訳で、騒いだ割には流行らなかった。
ま、ガンダムだ。 ガンダムを操作するのに、プレイステーションのコントローラーみたいなのじゃ無理で、操縦者との神経とシンクロさせる。 それでも、一人じゃ無理で、2人が右脳と左脳に分かれて、2人がコネクトした状態で操作する。つまり、他人の存在を完全に受け入れた状態で操作する。
今回は、ここ「他人の存在を受け入れる」に注目しよう。
その瞬間に自分の存在も相手には丸見えになってしまう訳だ。
裸にされても心は隠せますが、心まで丸見えになった状態を想像してみよう!
今、外から、脳の様子を観察するのは流行ってます。 脳の限られた容量で処理するには、ある程度正規化されるのはやむを得ないので、例えば、文字を見させておいて、いまその人が何の文字を見ているか、程度なら外からわかるみたいだ。
原理として、この延長で「どう感じてるか?」まで分かるようになるんだろうか?
悲しんでいる、とか喜んでいる程度なら分かると思うが、 観察ではなくて、当事者として当事者がどう感じているか?だ。
それはシナプスのパターンだけじゃない。 シナプスのパターンだけなら行けそうな気もしますが、ダマシオによると人の心の感じ方はそれだけじゃない。ドーパミン等の脳内物質の濃度にも依存する。 じゃあ、脳内物質を、他にもあるかも知れませんが、それらを共有するようにすれば、そうなるんだろうか?
私はオートポイエーシス信者なので、なるわけないじゃん、という立場。
もしなったら、そのオートポイエーシスのネットワークは元のと違うので、それ別人。 一人でも、右脳と左脳は別の人。更に、多くの人格の断片で超複雑なことになってるのに、×2でもっと面倒な事になる。
自分で言い出しておいてなんですが、そんな事はどうでも良い。
人が他人とコネクトされる状況を考える。 複数人がある体験をして、そのうちの一人が十分重要と思える体験を、他の人も同じように感じたとすると、別に神経はつながってませんが、十分コネクトされているんじゃないだろうか?
例えば、感動を共有する。 これとは似ているけれど、例えば、感動に涙している人をみて、自分はそうでもないけれど、ついその場にあった声を掛けて、一緒に喜んだ振りをする、のとは違う。 自分も同じように感動する場合だ。 同様に、悲しんでいる人をみて、自分は悲しくないけれど、気の利いた言葉を添えて、一緒に悲しみを共有する振りをするのも違う。 全く同じにはならないが、なるわけありませんが、肝心な箇所で同じように感じたなら、それば十分コネクトしているように思う。
例えば、5年も経てば人も変わる。 今は同じように感じない二人かもしれないが、もしその時同じように感じていたとしたなら、多分、それなりの理由があるんでしょう。 今はそう感じない理由をその時と同じ「確度」で表現できると思うぞ。
5年も経ったんだから、あとは自己責任です。なんて言える訳がない。 そうじゃなくて、本当に寄り添ってきたなら、5年の間にもっと色々出来たハズだ。
それは頭だけの理解とは違う。全然違う。 それは感情も伴うが、感情だけの共有でもない。 上手い言葉がみつからないが、魂と魂のふれあいのようなものだ。
じゃあ、ソールメイトか?って、そんな静的なものでもない。
ともあれ、自分とは違う存在で、信じられる存在。コネクトしている存在がいくつもある。それは人生を豊かにする。

そういえば、これは映画鑑賞会ではなく、嫁さんが実家に行く前に一緒に観た映画を思い出した。wowow の録画で。
嫁さんにはウケてませんでしたが、私的には★★★★星4つ。
日本人には強烈なサイコパスは居ないので、この手の映画はあまりウケないんだと思う。 「そもそも、なんでこんなゲスな男と浮気するんだ?」みたいな突っ込みどころも一杯ですが、そういう些細なことはこの際脇においておかないと、この映画は耐えられないかも知れない。
原題は「Before I go to sleep」で、寝ちゃうと、普通はその日に起きた出来事、短期記憶が整理されて長期記憶に保存されるんですが、この主人公は失われてしまう。 毎日目覚めると、20代前半に戻ってしまっていて毎日そこから開始するようになってしまった人の話だ。 生まれつきじゃなくて、辛い事故に遭って、頭が可笑しくなってしまった訳だ。
記憶の継続性が人格を保つのに如何に大切か? を考えさせられる映画です。 1日は余りに短い。私だったら寝るのを止める!(嘘です、寝ないでも脳のワーキングメモリーが一杯になると、意識は勝手に停止します)。 そのままだと、どーしようもないのですが、この主人公は内緒で知り合った精神科の医師から、ヴィデオカメラを与えられ、長期記憶に相当する部分を自分で録画して、翌朝それを観て(観るように、毎朝医師が電話してくれる!)、その日を開始するという方法を採る方法を採るようになってから、物語が進み始める。
考えてみると、私も毎日起きたら「俺様誰? ここは何処だ?」状態から始めているので、似たようなものだ。 ヴィデオの変わりに日記を書いているとか?
この映画では、他人は好き勝手記憶を入れ替えようとします。 この主人公はその記憶は残らないんですが、そもそも記憶も適当なものだ。 それに基づく、基づかなくても人格もほとんどは適当でいい加減なものだ。 上手い具合記憶が飛んでくれれば、ゼロからじゃないにせよ、もっと都合の良い人格も築けるってもんだ。
じゃあ、ホントの俺様とか貴兄の存在は一体なんだんだ? ということになりますが、そんなものはそもそも存在しないのか、それとも在るのか。

2017/5/13

子を抱えて泣き叫ぶ母ザル

スプートニクで紹介された写真だ。
動かなくなった我が子を抱えて、泣き叫ぶ母サルだ。
実際は、躓いて脳震盪を起こしていただけらしい。ホッ!

この母サルはきっと誤解したんだと思う。 人間なら、直ぐに例えば脈を観るとか調べる。 単に気を失っているだけだと分かれば、不要に悲しむ必要もない。 感情と理性は対立するものじゃない。
知性を備えた人とサルとは少し違うが、もしホントに自分の愛する人が突然亡くなったら、その心境は想像するに絶するものがある。 アタナはこの母サルと同じように、その気持を全身で受けとめることができるだろうか? というのは、人は一時的に「感情を自ら感じなくすることができる」。 余りに辛い感情は、それを受け止められる力がなければ、心が壊れてしまう。 それを察すると、その人は、って、誰だ?、感情を感じなくなる。 自己防衛本能の1つと思う。 されど、その悲しみがなくなる訳じゃない。 心の奥に抑圧されて残っている。 その衝撃を受け止められる準備が整えば思い出して感じることができるかも知れないし、、はたまた、一生、思い出せないかも知れない。 思い出せたときに、どれだけ悲しかったかを思い知る。
仮にそれを「抑圧されたもの」と呼ぼう。
抑圧されたもの、それが心に存在するかどうかは、思い出した時に実は存在してたことが証明される。 本人も気づくが、それだけだろうか? 否、思い出せないとしても、それは心の奥底にのこっていて、その人に影響を与え続ける。 それを思い出しそうな状況では、まだその準備ができていなければ、思い出さずに済む方向で自己合理化を図る。
ということは、悲しい感情をも十分感じられる人は、その準備ができている「強い人」ってことだ。
嬉し感情とか、都合の良い感情だけ十分感じられて、悲しみとかそういう感情だけブロックすることが可能だろうか? 私は、特定の感情をブロックしたら、他の感情もかなり抑制されるように思う。 つまり、そんな器用なことは出来ない。 できる人を私は見たことがない。
なので、十分消化できない悲しみの後、楽しいことがあっても、一見、これまで通りの楽しい振りはできますが、心の中は以前とは違う状態になる。 感情は薄れ、豊かではなくなる。 普通の人なら、心を塞いだ状態になる。
時間が心を癒やし、ぽっかり空いた心の穴が塞がるような、新しい人生の局面にうまく移行できたなら、現実を受け止め、以前のように感情豊かな人生が送れるようになるかも知れない。

困ったことに、人間は動物よりずっと傷つきやすい。
なぜなら知性があるからだ。 例えば、相手が喜ぶだろうとおもって何かをしてあげる。 その何かと愛情とは一見無関係なものでも、人は関連付けられる。 昔、「なんで、女が洗濯しなくちゃならないのよ!」と男と同棲しているのに、憤っていた女性がいましたが、その女性、理系だったので致し方ない部分もありますが、 普通だったらそうじゃない。 相手のその人が喜ぶだろうと思って、喜んで洗濯するようになる。 それは洗濯しているんじゃなくて、愛情の表現だ! と断言すると叱られそうですが、別に洗濯はどっちがやっても良いわけで。 洗濯にかぎらず、直接、愛情とは関係ない行為まで愛情と関連させて行うことが人はできる。料理でも、いや、料理もどっちでも良い。ベットメイキング、、、、これもどっちでも良いので、あまり適切なものが思い浮かびませんが、 喜ぶ相手の顔を思いながら、何かをするということは、すなわち「感情豊か」に、この場合は愛情ですが、生きることだ。 それは、知性に劣る動物には無理、人ならではの行動だ。
どうせなにかをやるなら、感情を込めないでやるより、って「なんで、女の担当なのよ!」と言い放った時点で、逆方向の別の感情が隠ってますが(多分、昔、そのような事を強いられたり、やって、分かってもらえなかったりした経験があるんだと思いますが)、楽しい感情を込めながらやったほうがずっと楽しいと思う。その方が、ずっと素直な生き方だ。
その行為には、気持ちが込められている。なので、無慈悲に否定されると、動物なら傷つかないところでも、人は傷つく。 そんなおバカな男は放って置いて、って俺様か? それで喜ぶだろうと推論したのは、感情じゃない。 イマイチ、喜ばなかったら、ちょっと読みが不足したと反省するとして、知性とか理性とか創造力の力だ。 なので、ここでも感情と理性 or 知性は、対立するものじゃない。 本来は、協調しあうもので、人生を豊かにするものだ。 このような力があるので、人生は多様性に富んだものになる。

更に、動物なら、ホントに躓いて死んじゃった場合とか、他の肉食動物に食われたとか、直接的な場合ですが、人はもっと狡猾で悪い奴がいる。 そういう直接的な方法じゃなくて、アタナの愛するひとをアタナの手から奪い去ることも可能だ。 動物なら、母親は威嚇して必死に子供を守ろうとするだろう。 当然の事だ。なので、もし人間社会に於いて、貴方から奪おうとする人が居るなら、貴方はそれに対して「怒り」を覚えるのは当然の事だ。 当然、その場合も怒りに任せて暴走すんじゃなくて、人間らしく対応する事が人間社会では要求されますが。

繰り返しますが、感情は無条件に否定するようなものじゃない。
そんなことはする必要がない。 なぜなら、感情的になるのと、感情豊かに生きるのは違う。 感情になって暴走するのは宜しくないが、正しく存在させることによって、人生はより楽しく喜びに溢れたものになる。
なんども言うが、感情は爬虫類以下の生物にはない! 高等動物だけが有する能力だ。
だれから教わったか知らないが、そんな不要なもの否定すべきものが最も進化した生物に備わっているハズがない。

ところが人であれば当然持ち合わせているであろう感情を持ち合わせてない人が存在する。
1つは、これまで何度も述べましたが、サイコパスと呼ばれる人たちだ。
もう1つは、悲しい気持ちを心に宿してしまった人達だ。
自分で言うけれど、クールだった俺様は、きっと後者だと思う。
理系はそれはそれとして、それだけで定立することができるような訓練をする。 質量は重さみたいなものですが、言葉が違うので誤解は少ないとしても、力は物理の力と普通の社会で使われる力は違うのに、同じ力という言葉を使う。 なので、普通の言葉遣いとは切り離して「力」という言葉を使う。 そういう意味では、単純で勘違いというか、思い込みし易い人が得意な学問だ。 逆にそれ、理系の言葉遣いこそが正しいと勘違いし始めると、サイコパスの一歩手前かも知れない。

2017/8/9

良心

Wiki によると、下の説明だ。

良心(りょうしん)とは、自身に内在する社会一般的な価値観(規範意識)に照らして、ことの可否ないし善悪を測る心の働きのことである。英語ではconscienceと表記され、その語源には日本語のような「良」を意味する部分はない[1]。従って、英語では、good conscience[2](日本語では、"良い良心"にあたる)や、 evil conscience (日本語では、"邪悪な良心"にあたる)という表現が存在する。罪悪感が入り混じった複雑な感情の動きを良心の呵責と称されることがある。
曖昧すぎますよね。
一般的には、なにか悪さをしようとしたときの制動力みたいなものを指すようだ。
日本人は良い人が多いので「良心」で、良の文字が入るのは良く分かる。
「お前には良心がないのか!」とか「良心の呵責」とか十分情緒的だ。
ところが、欧米人が考える「良心」は少し違うようだ。
例えば、フロイトの精神分析。
彼は、心をイド(エス)、自我、超自我の3つの機能構造に分けて説明した。 左図。
イドは色々な要求を発生する元だ。
何れにせよ、心はほとんどが無意識。 意識はほんの少し。 フロイトは氷山とか、温めたミルクの皮の部分をイメージしたが、 これユングだと無意識のイドの部分の根がもっとずっと伸びて、万人どころか宇宙の意識とつながるイメージだ。
イドから上がってくる要求を自我が処理しているイメージだ。 自我は俺様だ。
ここで、悪さしようとする自分(ここでは自我)を抑制する機能を有するのは超自我だ。 なので、そういう関係でいうなら、良心に相当するのは超自我だ。
國分康孝先生だと思うが、違うかも知れませんが、真面目に心理学の講義はこの先生以外受けた事はないので、多分そう、「良心≒両親」 という説明をしてたような。 確かに、最初にあーしちゃいけいない、こーしちゃいけないと、良いことと悪いことを教えてくれるのは両親だ。 そういう意味では「超自我≒両親≒良心」と言えなくもない。
精神分析なので、性欲で言うと、発生源はイドだ。 それを否定するのは超自我で、それらの折り合いを上手くつけて自我はなんとかするんだか、しないんだか、そういう構図だ。

で、これを遠くからぼんやり(貴方が喫煙者ならタバコでもふかしながら)眺めてみましょう。

性欲が「悪さ」かどうかはさておき、先ず、日本人の良心はどちらかというと気持ち的なものですが、欧米人のそれは、気持ちというよりは、善悪に基づきき、ずっと「理性的」なものだというのが分かる。
それどころか、超自我って、超自我と格好つけて呼ぶ程のものでもなくて、単に両親と過ごした時の、もしくは学校かも知れませんが、はたまた属している社会かもしれませんが、その時に適応して築き上げた(私が最近つかっている言葉での)人格の1つに見える。 それが本来のだかどうかは別にしてフロイト「自我」と呼ぶ別の人格と統合されていないので、自我側からみたら、しばしば否定する役割を持つだけのように見える。
つまり、日本人の良心と、欧米人の良心は違う。
違うというよりは、日本人のような良心を欧米人は持っていない。
これで、私も精神分析からの呪縛から開放された気分だ。
40年間くらい羅患してました。 すっきり、爽やか、いい気分。
ま、抜け出そうにも、そんなこと考えている暇なんかないくらいに仕事してましたから。
日本人のような良心は外人にはない!
と、言い切ってしまうとそれはそれで問題がある。
というのは、古代ギリシャのプラトンにまで遡る。 ソクラテスかも知れませんが、正義は単なる社会的な規範ではなくて、個人の内的な倫理学的なものに基づくとした。 高校の時の倫理社会かな? 最初にこれ聞いて、びっくりした記憶がある。 なので、そうすることが正単純にしいかどうかじゃなくて、気持ち良いかどうかだ。 気持ちを無視している訳ではない。
更に、同じ精神分析でもライヒがいる。
フロイトが理性的な治療に徹したのに対して、ライヒはなにかやるにも「気持ちを込めて」やる治療を行った。 うん、どうせやるなら、気持ちを込めてやった方が楽しい! 商売でやっているお姉さんは、そりゃあ毎回本気でやれば身が持たん。 その場合演技なのは十分納得。 ライヒは、その気持ち(リビドー or オルゴンエネルギー)が抑えられなくなって、本来の流れを取り戻した時、病は終わるとした。 気持ちを否定するこどろか推奨している。 皆が皆、理性主義者である訳ではない。

私はこの違いの出処を思考形態の違いに求める。
彼等はデコヒーレント思考、我々はコヒーレント思考。
デコヒーレント思考では、ある、良くわからないものが心に浮かんだとして、その心の状態にピントを合わせて「この気持は一体なんなんだろう?」なんて、やっている余裕はない。 敵と遭遇すれば、戦うか逃げるかを一瞬の内に決める必要がある。 それが出来た人が生き残った人種だ。
「感情」はまさに、良くわからない心の中の存在だ。
例えば、会いたかった人と再開できて嬉しくて、思わず涙したとしても、 理屈では嬉しいのは分かる。 実際嬉しいんですが、なんでそんな気持ちになるんだか、良くわからない。
その嬉しい気持ちにほんの少し、影だか濁りが含まれていたとしよう。
だとしても、大雑把にデコヒーレンスさせるとしたら「嬉しい」に収束するしかないのですが、我々日本人なら、この影だか濁りに、ピントをあせてコヒーレント思考すると、 もしかしたら、まだ解決されてない二人の間の○○を思い出すかも知れない。
フロイトは自由連想法とか夢判断を用いたみたいですが、コヒーレント思考の方がずっと効率が良い。

さて、私が考える(日本人の)「良心」だが、
それは感情に結びついている。感情を伴う。 感情が後見人のように控えている。
と言っても、私が持ってない感情を他人がもっている場合もあるし、 どこまでの感情を許容するかは分からない。 混じり毛のない「優しい感情」ならそれは容易に結びつく。 「怒り」も、不条理を目にした場合の怒りなら、そこには結びつけられるものも多い。 結びついたたとしても、それに振り回されてしまう訳じゃない。 「嫉妬」なら「嫉妬」を、そこからなにもしないで、感情任せに行為するということではない。 その嫉妬でも怒りでも、その感情には原因があるハズだ。
それを探り当てて、調和(統合)する必要がある。
フロイトの超自我のように、感情を無視して、否定する存在じゃない。 逆に、感情とも折り合いを付けながら行為するように促す存在だ。

ところが、混じり気のある感情は難しい。
よく用いる例だが「可愛さ余って憎さ100倍」って奴だ。
その愛情は不純。濁ってる。 可愛さの裏には「憎しみ」が潜んでいる。 純粋な可愛さなら、相手が言うこと聞こうが聞くまいが、知ったこっちゃない。 否、嫌がることはしないと思いますが、それで憎しみに変わるということはない。
もし、貴方の両親が貴方を条件に受け入れて愛してくれていたなら、そのときの気持ちは良心に結びつく。 逆に「いい子にしていないと愛されない」子であったなら、そのとき築かれた人格は超自我になるかも知れない。
濁った気持ちの場合、素の純粋な感情も勿論含まれてますが、混じり気のある感情からそれを抽出できたなら、意外なものを発見する。 当人もほとんど忘れかけているんですが、というより記憶に上げるには辛すぎる体験ですが、それらの隙間を縫って生じた感情は、純粋なそれとは違う。 手前の銀河の重力によって重力レンズとなって、その後ろの銀河が歪んで見えるようなものだ。
「いい子にしていないと愛されない」子のどこが拙いのか? いい子にして、結局は愛されるのだから良いではないか。 それは「躾け」でありどこが悪い?
それは、 ありのままの自分だと愛してもらえないわけで、 本来の自分が否定されているからだ。 もし、子供にも分かるように伝えられたなら、それは否定にはならない。 否定にならないように、躾けられるならそれはそれで良い。
そうじゃなくて否定には、何某か強いるものがある。実際に物理的な暴力じゃないとしても、まあ「暴力」だ。 なので、混じり気のある感情の混じり気には、「暴力」も入り込むケースが多い。 それが性愛感情に紛れ込めば、SMチックなものになる。

ライヒはガンは精神病だと言ったが、ガンに罹る人の混じり気にはある特徴的なものを感じるケースが多い。多分、それ「絶望」と思う。
絶望というのは、望みがないわけじゃない。なければ、そもそも絶望もしない。 また成就出来ていないけれど、別に自分は今でも十分幸せだから、達成できなくても良いや、ってレベルの望みでもない。 諦めきれない望みがあるんだけれど、諦めざるを得ない状態だ。 運命をというより、自分が病気になるくらいだから、自分を呪っているのか知らん? ガンに罹る人には固有の臭いを感じるときがある。

「なんか、変だ!」と思う事は良くあるでしょう?
私がもう少し知能指数がたかければ、その場で直ぐにに反論なり、疑問を呈することもできる。ところがそうじゃない。 分かるのは「なんか、変だ!」というところまで。
例えば、難しい話を聴いて、言っている内容は頭では理解できたとしても、腹では腑に落ちない。こういう経験あるでしょう? これ分かった状態かどうか? 多分、筆記テスト程度なら、かなり良い点が取れたとしても、分かったとは言い辛い状態だ。私なら「分かってない」と答える。 言いたいことは分かったがそれが何なのか? どういう意味なのか? は分からん状態だ。 「知ってはいるが、分かってない」状態とも言える。
記憶力のよい人は、そのまま覚えられるので、覚えてしまえば後からでも応用が効く事があるかも知れませんが、この場合、理解は放棄しているので、本質的な議論は無理だ。 なんだか良くわからない中途半端なものが頭にあると気持ち悪い。 おバカな私は直ぐに忘れる。 こちらだと、理解は出来てませんが、理解を放棄しているわけでもないので、つまり屈していないので再度挑戦可能だ。
ということは、良心のみならず、理解というか認識も感情を伴う、って事になる。
理性と感情は本質的にはお互い対立するようなものじゃない。

以上は当事者側からの表現ですが、これを観察者側から述べると「人は誰でも、自分と同じように、幸せになりたいと思っている」ことを認めることだ。 それには、他人のそれより先に、先ず自分は幸せになりたいと思っていることを認める必要がある。 そうして、人は同じなんだ。 「お、やっぱり、みんな金持ちになりたんだぁ」と早合点する人がいますが、違います。 自分が幸せになるにはお金が必要だと思い込んでいるなら、そういう発想になりますが、 個人個人の幸せの具体的な形は個人で違う。
額面の金額はいくら増えても決してお金持ちになれない、精神が貧乏な人の話を覚えているか知らん? これでも足らんのか? ともっと稼ぐという無限地獄に落ち込む人の話だ。
これでもかなり情緒的なので、もっとクールに言うなら、例えば基本的人権って事になる。この手の奴。 見事に後見人たる「人の人としての感情」を隠した表現だ。
ロジャー・ペンローズが言うように、数学者が七転八倒しながら得た定理だか証明を、途中経過は全部カットして、綺麗に清書して結果だけ論文で出すようなものだ。 数学なら、その結果は検証の対象になるような形式で出すので十分科学だ。
ところが、後見人を隠した言葉には、 そこまで含めて理解しないなら、つまり後見人が居ないので力がない。 更に、注意しないと知らない間に別の後見人がつく場合がある。
そもそも、腹で理解しない優等生には、そんなことは見抜けない。
経済学者は前から御用学者っぽかったんですが、多くの物理学者も大差なかったことがフクシマでバレた。彼等はみな同じタイプだ。

そもそも、情緒的なものは検証できないか?
デコヒーレント思考だけ使うならそれはかなり難しいかも知れない。 なので、基本的人権なら基本的人権で、その定義を明文化して云々と議論する訳だが、それは観測者の立場だ。 そんなリモートから遠隔操作せずとも、当事者の立場に立てばもっとリアルに当事者からの表現が可能になる。 ここで使う技術はオートポイエーシスだ。
ところが、オートポイエーシスを使って、原理的には表現可能になったとしても、それをどう表現するか、それが難しい。 そもそも微妙な問題なのは間違いない。 なので、それを無理にデコヒーレンスさせると、かなりな情報量が失われる。 それは主観的な問題なので、他人からは分かりません!で、終わってしまう。 そうじゃなくて、検証に耐えるように詰めるには、コヒーレントな状態を保った儘、情報を失うことなく、話しを進められる表現力が必要だ。 コヒーレント思考は必須と思う。 コヒーレント思考したとしても、そもそも欧米系の言語はデコヒーレント言語だ。 中国語は漢字の数が多いので多少マシですが、それでも日本語と比べるとずっとデコヒーレンスしている。 日本語は外国語と比べるとその点ではずっと有利だ。
私はそれらを駆使すれば、十分検証可能な状態にまで持ってこられそうな気がする。

と、言うわけで読者の皆さまには「感情豊か」に生きることをお勧めします。
それが「良心的に生きる」事になる。

楽しいことをやるなら、自分も心底楽しんだ方が楽しい。
客人をもてなす為に、(自分も楽しんでますみたいな)そういう振りをするんじゃなくて。

楽しむだけで十分と思いますが、貴方ももし検証可能なこの精神の旅に出たいなら、
出発することは可能。でも私は危険なのでお勧めしません。
先ずは、客観的にだけ考えるんじゃなくて、当事者の立場で考えることから開始する。 もとい、立場というと「俺なら、そういう立場になってもそうしないよ」等と誤解を生みそうだから、当事者になったつもりで、当事者の声を出してみる。 ところが、その行為はその当事者の霊を憑依させるようなものなので危険です。 深入りはしてはならない。当事者がそこから抜け出せてないような問題なら、あなたもそこに嵌ってしまう可能性があります。 精神科の医者、薬を処方するだけじゃなくて、ちゃんと患者と接するようなタイプの医者には自殺者が多い。 陰謀論ブロガーがみな精神を病んでしまうのは、サイコパスの思考に周波数をあわせるからだ。 最初は簡単な問題から、深入りしないでヒントを得るくらいの軽いチャネリング程度で始める必要があります。
その状態を定立できたなら、そこに当てはめるのはコヒーレント思考だ。
間違っても弁証法じゃない。結果を弁証法的に表現するのは分かり易いが、弁証法自体が力を持っているわけじゃない。





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